158日目
愛の属性(4)
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「愛は誇らない!」(コリントの信徒への手紙一 13:4)愛は誇らず、それゆえにYahwehは誇らない方です!
サウロはテモテに「ほかの教えを説くことのないように」(テモテへの手紙一 1:3)と勧めました。ですから、ねたみについてと同じく、純粋な教えを保つためには用語を定義する必要があります。「わたしはYahwehである。わたしのほかに神があってはならない」(出エジプト記 20:3)ということばは、誇ることについての御方の教えを明確にしてくれるはずです。誇ることに関して言えば、すべての栄光を期待されるのはYahwehです!サウロはこう言います。「このような方についてなら、わたしは誇りましょう。しかし自分自身については、自分の弱さのほかには誇りません。」(コリントの信徒への手紙二 12:5)そして彼はまた、こうも認めています。「わたしは、わたしの内に、すなわちわたしの肉の内には、善いものが住んでいないことを知っている。」(ローマの信徒への手紙 7:18)
ですから、この方のみを誇るというあり方において、わたしたちはただ、すべての栄光を主張されるその方が、わたしたち自身の堕落からわたしたちを救ってくださるときにこそ、美しさを見出すことができます。もし御方が誇りながらも、わたしたちを堕落したままの状態に置かれるなら、それを完全な愛と呼べるでしょうか。もちろんそうではありません。ですから、誇りにふさわしいのはYahwehお一人だけであるとわかります。
わたしたち贖われた者について言えば、愛はわたしたちの肉的な誇り方に語りかけます。そして、そうした誇りはすべておぞましいものですが、その中でもさらに悪質な誇りがあります。偽りの謙遜(コロサイの信徒への手紙 2:18-23)と自己義認(ローマの信徒への手紙 10:3)は、自我による誇りの中でも最悪のものです。誇りと霊性は、救いのために選ばれた同じ良心の中に共存する場所を持ちません。砕かれ謙遜な思いは、決して自分自身の重要性を誇ることがないからです。
もしあなたが御方によって救われる(贖われた良心が、完全にYahwehの命令にゆだねられる)べきであるなら、あなたはこれほど壮大な計画に、いったいどう関わることができるでしょうか。多くの人が救われたのは、ある方お一人の死によることでした(ヘブライ人への手紙 2:14、ローマの信徒への手紙 5:15)。そしてその死こそが、人の良心の内に御方の思いを開くのです。あなたのために死なれたその方を殺したこと以外に、あなたはこのことについて何の手柄を主張できるでしょうか。わたしは誇りません!
わたしはあなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるならば〔互いに愛を示し続けるならば〕、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るようになる。(ヨハネによる福音書 13:34-35)
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