306日目
最後の一枚まで
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「わたしたちに負い目のある者をわたしたちが赦しましたように、わたしたちの負い目をもお赦しください」(マタイによる福音書 6:12)負債とは、ある人が他の人に対して負っているもの、それが金銭であれ、品物であれ、サービスであれ、その人が他の人に支払う、あるいはその利益のために果たす義務を負っているものである。それは負っている「もの」であり、義務であり、責務である。しかし最も深いレベルにおいて、負債とは、Yahwehに対して負っている義しい人生という義務にほかならない。
あなたが義しい生き方に及ばないとき、あなたは全能者に対する負債者となる。あなたはYahwehに対して熱心でありながら、主が求めておられる義を理解していないことがありうる。ただ一つの真の義に従う代わりに、自分自身の義を打ち立てようとすることによって、あなたは主の義について無知であることを露呈することがありうる。あなたのうちにおられるメシアこそが、信じるすべての人にとってのただ一つの義なのである(ローマの信徒への手紙 10:2-4)。これが、「内側から、そして外側へ」という聖書的なパターンである。あなたのうちにおられるメシアによって力づけられた義しい思考に満たない何ものも、すべての負債はそこから始まる。
負債には二つの側面がある。それは、押しつけと怠慢である。このそれぞれが、何が犯され、何が赦されたかという両方について、Yahwehがわたしたちに理解してほしいと真に意図しておられたことの、形而上学的な側面についての精緻な洞察を与えてくれる。この両方は思考の誤りとして始まり、欠乏の思考へとつながり、そしてもちろん、それは物質的な貧困で終わるのである。
押しつけとは重荷や義務であり、しばしば「侵害」と言い表される。それは、自己義認という重荷のもとであなたが担う重い重みである。怠慢とは、怠慢さや不注意によって犯される義務違反である。それは、Yahwehの真理と命令をまったく顧みない思いの産物なのである。
「過去の」負債(思考の誤りとその物質的な結果)の代価は、Yahshua・メシアの流された血によって支払われた(贖い)ものであるが、それは、回復(思考的、また物質的な)が必要な過程でないことを意味しない(聖化)。さらに、信仰の告白と刷新の後もなお続く押しつけと怠慢は、あなたの贖い主に多くを物語っている。なぜか。主の赦しを受け入れることには、主の基準に対して責任を負うことに同意することもまた含まれるからである。
もちろん、あなたが自分の贖われた状態を、ある種の「牢屋から出られる恵みのフリーカード」のようなものだと信じているのでないかぎりは。もしあなたが習慣的に、罪を犯すという自分の選択の重大さを軽く見て、「罪の増し加わったところには、恵みも満ちあふれた(ローマの信徒への手紙 5:20)」と考えているなら、あなたはまさにそれをしていることになる。あなたは、主の命令と、それを犯すことへの罰を無視しているのだ。それでは、わたしたちは何と言うべきか。恵みが増し加わるために、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない!わたしたちは罪に対して死んだ者である。どうしてなお、その中に生きていられようか。(ローマの信徒への手紙 6:1-2)
それは、Yahwehの基準に対する押しつけと怠慢についての個人的な責任を認めることから始まる。メシアの杭を見つめながら、罪を犯し続けても何の結果もないと考えるのは、愚か者だけである。モーセの律法を退けた者は、二人か三人の証人の証言に基づいて、憐れみを受けることなく死んだ。まして、力ある方の御子を踏みにじり、自分を聖別してくれた契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮辱した者は、どれほど重い罰に値するとあなたは思うか。(ヘブライ人への手紙 10:28-29)
主の死は、あなたの負債を決済してくださった。そして主の死のゆえに、すべての負債は決済されなければならない。愛する者よ、慎重に歩みなさい。罪に対して死んだあなたが、どうしてなお、その中に生きていられようか。
© Suffer Well デボーション・シリーズ