27日目

砂に残るかかとの跡

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「あのとき、わたしはあなたを引きずったのだよ、わたしの子よ」。わたしの御国を、見ることや感じることによって捉えようとするのをやめなさい。それは、視覚や感覚によって来る御国ではなく、むしろ、知ることによる御国、あなたの奥深くにあるわたしの思いを知ることによる御国だからです。

力ある方の御国は、目に見える形で来るのではありません。人々が「見よ、ここに」とか「見よ、あそこに」とか言うこともありません。まことに、力ある方の御国はあなたの内にあるからです。(ルカによる福音書 17:20-21)

わたしの御国はヘブライ的なものであり、ギリシャ的なものではありません。それは真理であり、哲学的な理論ではありません。そしてそれは、わたしの思い(ヘブライ的な心)によるものであり、感情の心(ギリシャ的な心)によるものではありません。

あなたの信仰が感情の上に築かれるとき、愛する者よ、あなたは自ら失敗を招くことになります。感情的な信仰は、揺らぎやすい土台の上に築かれています。もっと絵画的な表現を求めるなら、それは沈む砂の上です(マタイによる福音書 7:26)。それは、まるであなたの心がなお割礼を受けていない(ギリシャ的)かのように、あなたが自分の「心」の中で何を感じるかによって揺れ動きます。割礼を受けていない心は「あらゆるもののうちで最も悪しきもの」です(エレミヤ書 17:9)。それは、どんな気持ちであろうともわたしを愛し従う割礼を受けた心とは対照的に、人間の思いと感情に支配されています(申命記 30:1-6)。

もともとの園において、わたしはただ命令だけを与えました。それなのにあなたは、彼らがそうしたように、わたしの意図があなたに「自由意志」を与えることであったかのように、なお生き続けています。わたしがいつ、どの木が「よい」で、どの木が特に「いけない」かの選択をあなたに与えたでしょうか。わたしがどこで、彼らに、そして今あなたに、「自分が最善だと思うことを」選ぶようにと示唆したでしょうか。

あなたの贖い、あなたの永遠における場所を確定したその贖いは、わたしの主権による決定でした。それは、事が困難なときにはわたしがあなたを運び、すべてがうまくいっているときにはあなたが自分の足で歩く、といったような浜辺の散歩ではありませんでした。あなたの贖いの前には、何一つとして良いものはありませんでした。しかし、それが成し遂げられた後、あなたは自分自身の苦しみの杭を取り上げることを学び、わたしを愛していることを証しするよう求められたのです(ルカによる福音書 9:23)。

どのようにしてでしょうか。わたしを愛する者たちは「わたしの命令を守る」のではありませんか(ヨハネによる福音書 14:15)。しかし、それは選択ではありません。まさにそこに欺きがあるのです。あなたは、わたしを愛していると宣言しながら、わたしの命令に背くことができるでしょうか。もしあなたがそうは思わないなら、わたしに告げなさい。

愛する者よ、わたしの言うことを聞きなさい。あなたの贖いの前、わたしの超自然的な介入なしのあなたのあらゆる選択が死をもたらしたのであれば、わたしの目的が、今あなたに選ぶ「自由」を与えることだったと、どうして信じられるでしょうか。あなたはそれが見え始めていますか。

もしあなたが、わたしの御心以外の何かを選ぶなら、あなたは自由ではありません。それは束縛です。真の自由とは、選択肢を持たないことです。わたしの道だけが唯一の道であるとき、あなたはまことに自由なのです。もしあなたがそれ以外を「選ぼう」とするなら、わたしはあなたを引きずらなければなりません。

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