93日目
わたしたちがこれをなした
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あなたはこのデボーションの時を通して、いくつもの型について学んできました。Yahwehの型は常に完全です。それは常にあなたを祝福することを意図し、常に前進させることを意図しています。それは裁きを行うときでさえ、常に義にかなっています。
しかし、あなたはどうでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。人間の(自我の)型はどうでしょうか。世代から世代へと受け継がれる型について考えてみてください。今もなお、わたしたちを苦しみの世界に閉じ込めている型について考えてみてください。
あなたに何かを説明してもよいでしょうか。厳しい事実を提示してもよいでしょうか。平安、静まってください。それは最終的に自由へと導く事実です。あなたが経験している痛みが、過去のものであれ現在のものであれ、それは人の罪によって引き起こされているのです。
深く息を吸い、思いを落ち着けてください。それを受け止めてください。これは非常にデリケートな問題であり、すべての真の信者の心の中で扱われなければなりません。もはやこれを脇に押しやることはできません。Yahwehの家には犠牲者はいません。もう一度言います。Yahwehの家には犠牲者はいません。
こう言い換えましょう。あなたが犯す危険のない罪がありますか。あなたは本当に、自分が「最悪の」罪を犯し得ないと言えますか。例えば、あなたは人を殺すことができるでしょうか。そうです、それは心(知性の中心)から始まるのです。心から出てくるのは、悪い考え、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、そしり、だからです。(マタイによる福音書 15:19)
そうです、あなたは殺人を犯しました。姦淫は?それもそうです。淫行、盗み、偽り、そしりについて、あなたは考えたことがありますか。もしあなたがそれを考えたなら、あなたはそれを行ったのです。人はその心に思うとおりの者だからです(箴言 23:7)。そうです、マタイによる福音書 5:21-30を読んでください。
これがYahwehの国です。これが彼のお定めになった仕組みです。完全な型なのです。では、思いは行為とまったく同じなのでしょうか。実際、人間の視点からは、多くの場合、そうではありません。実際に人の命を奪う殺人者は、その結果として牢獄に座ることになります。心の中で殺人を犯す者(そうです、それもなお殺人です)は、物理的な牢獄を見ることも見ないこともあります。しかし、彼の良心を取り囲み、それを汚す格子は、それでもなお彼を閉じ込めるのです。
Yahwehの国(完全な思い、それゆえ完全な視点)には、罪の程度の違いはありません。罪は罪であり、そのすべてが赦され得るのです。程度の違いはありません。喜んでください。すべてが赦され得るのです。
では、わたしたちは何を言おうとしているのでしょうか。誰も無罪ではありません。罪を犯す子どもは、罪を犯す大人になり、罪には結果が伴います。その結果はすべての人間が感じ得るものです。犠牲者を作るのは人であって、Yahwehではありません。Yahwehのご家族には犠牲者はいません。
死は人間の経験です。彼の国には死はありません。痛みは人間の経験です。彼の国には痛みはありません。暴力は人間の経験です。彼の国には暴力はありません。
この訓練から離れないでください。この型が存在することを否定しないでください。悲しむことは必要ですが、悲しみはわたしたちの国のものであり、彼の国のものではありません。
この思いをあなたの内に持ってください。「わたしは最悪の罪を犯し得る者だ。これこそが、わたし自身の痛みと、わたしの周りの人々の痛みへの扉を開くのだ。病と死はわたしの罪によって引き起こされるのだ。わたしはもう罪を犯さない。」
これこそが、完全さという目標に近づく思い、メシアであるYahshuaの思いです(コリントの信徒への手紙一 2:16)。この思いをあなたの内に持ってください。それをあなたの子や孫に教えてください。Yahshua(Yahwehは救う)が自由にする者は、本当に自由なのです。(ヨハネによる福音書 8:36)
© Suffer Well デボーション・シリーズ