34日目
今日
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今日「今日、もしその御声を聞くならば、反抗したときのように心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ人への手紙 3:15)これは、愛する者よ、あなたを助けるでしょう。Yahwehはすでにあなたに、贖われていない「肉の思い」は常に神の思いと敵対すると告げておられます(ローマの信徒への手紙 8:7)。
「では、肉の思いが決して神の思いを悟ることができないのなら、どうして私は喜べるのでしょうか」と、あなたは尋ねるかもしれません。この見事な問い、それは新しくされた思いからしか生まれ得ないものですが、その中にこそ答えを理解する鍵があります。
あなたが喜べるのは、あなた自身の知的な理解によるのでも、人間の力によるのでもありません。肉の思いは決して喜ぶことができません。しかし、Yahwehに贖われた者として、あなたはもはや肉の思いと自分を同一視する必要はありません。
どうすればそこに至れるのでしょうか。その道は、自分が減っていくことです。あなたの「自己」は常にYahwehと敵対します。それ(贖われていない思い)は常に自分の影響力と支配領域を広げようとするからです。
「父よ、私を減らしてください。そして、私の内と私を通して賛美し喜ぶのが、あなたの御霊でありますように。」これが、真に贖われた者の良心を支配する思いです。
創世記 1:1の「初めに」から、ヨハネの黙示録 22:21の「そうです」に至るまで、聖書全体を貫く卓越した青写真があります。それは、自分自身を「失う」ようにという繰り返しの警告の中に見られる、認識しうるパターンです。
自分の命を見出す者はそれを失い、わたしのために自分の命〔肉の思い〕を失う者はそれ〔神の思い〕を見出す。(マタイによる福音書 10:39)人が全世界〔肉の喜び〕を手に入れても、自分自身〔神の思いの可能性〕を失い、あるいは滅ぼされるなら、何の益があろうか。(ルカによる福音書 9:25)
しかし、多くの人にとって、「私は信じます、だから喜びます」という宣言は、まるでそのような宣言を引き起こすほど自分の内に何か十分に良いものがあるかのように、ひとりよがりな誇りを帯びて響きます。その傲慢さは、ただ「私」と叫んでいるにすぎません。それとは反対に、喜び、楽しむことができるのは、ただ「あなたの内におられるメシア」だけです。それ以外の主張は、すべて「自己」の響きを帯びています。
では、完全な贖いを表そうとしている思いは、なぜ賛美し喜ぶことができるのでしょうか。それは、内住の霊(ルーアッハ)が働き始めると、罪の意識(ヘブライ人への手紙 9:14)が、競争相手と直面することになるからです。もはや自分自身に対する「妨げのない」権利を持たなくなるのです。
この考えは、ローマの信徒への手紙 8:5-9でさらに詳しく述べられています。「肉に従って生きる者は肉のことを考え、霊に従って生きる者は霊のことを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは力ある方に敵対するものであり、力ある方の律法に従うことがなく、また従うこともできないからです。ですから、肉にある者は力ある方を喜ばせることができません。しかし、もし力ある方の御霊が本当にあなたがたの内に住んでおられるなら、あなたがたは肉にはなく、霊にあるのです。」
これは、Yahwehが造られた日です。この日を喜び楽しみましょう。(詩編 118:24)言い換えれば、これはYahwehが造られた日です。そして、贖われた者だけが、その日を喜ぶことができるのです。
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