333日目

時には

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時には、わたしはとても怖くなります。まるで一瞬にして消えてしまっても、誰もわたしを恋しく思わないかのように。
時には、わたしはほつれかけた糸にすがりついています。まるで明日という最良のものが、まだ切れていない一本の糸であるかのように。
時には、すべてが嘘のように思えます。まるでこの旅路がすべて定められていたふりをしているかのように。
時には、わたしは沈黙の中にひとり座り、その沈黙がわたしの孤独に語り返してくれることを切望します。
時には、わたしは戸惑います。もし希望に実体がないのなら、なぜ信仰は希望のうちにその実体を見いだすのでしょうか。
時には、わたしは怒りを覚えます。信仰と希望の唯一の証拠が目に見えないものであるなら、それらにどうして実体があり得るのでしょうか。
時には、これほどの弱さをもって造られたことが残酷にさえ思えます。なぜ愛がそのようなことをするのかと、わたしは問わずにいられません。

しかし、人間にすぎないあなたが、全能者に言い返すとは何者でしょうか。「形づくられたものが、形づくった者に、『なぜわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」陶器師は同じ土くれから、一つを尊いことに用いる器とし、もう一つを卑しいことに用いる器とする権威を持っていないでしょうか(ローマの信徒への手紙 9:20-21)。

わたしたちは共に、このような思いを乗り越える助けとなる多くのことを学んできました。ではなぜここで、なぜ今なのでしょうか。それはごく単純に、あなたを慰めるためです。すべての犠牲、従順への押し進み、そして御姿に似た者へと変えられたいというすべての切望の後でさえ、こうした思いがなお生じてきても、あなたが落胆すべきではないと知らせるためです。

Yahshuaご自身も、従順の旅路をすべて終えられ、約束されたすべてのものへの希望にしっかりと立っておられたその最後に、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書 27:46)と叫ばれました。その全生涯は罪のない旅路でしたが、最後にはご自身も疑いを経験しなければなりませんでした。天の国はご自身のうちにあり、それが一瞬にして奪い取られたのです。なぜでしょうか。それは、わたしたちと同じようにあらゆる点で試みを受けながらも、罪を犯すことがないためであり、そうである必要があったからです(ヘブライ人への手紙 4:15)。それはご自分の自我の意志から解き放たれるための最後の試みであり、それを成し遂げるためには父を疑うことが必要だったのです!

この後、Yahshuaはすべてのことが今や成し遂げられたことを知り、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われました。そこに酸いぶどう酒で満たされた器が置かれていたので、人々は海綿を酸いぶどう酒に浸してヒソプにつけ、それをYahshuaの口に差し出しました。Yahshuaはその酸いぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言われました。そして頭を垂れて、霊をお渡しになりました(ヨハネによる福音書 19:28-30)。Yahshuaは、あなたの器から出た酸いぶどう酒を、ご自分の器の中に受けなければならなかったのです。

愛する者よ、覚えておきなさい。僕はその主人にまさる者ではありません。彼にとって必要だったことは、あなたにとっても必要なのです(ヨハネによる福音書 15:20)。時に酸いぶどう酒を受けることになっても、落胆してはいけません。あなたの復活は近いのです。屈してはいけません。ひるんではいけません。まもなく、あなたは栄光のうちに入ります。

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