288日目
成し遂げられたのか
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「成し遂げられた。」(ヨハネ 19:30)「わたしたちは今やイエスを持っている。」「そして、御国のこの良い知らせは、あらゆる国民への証しとして全世界に宣べ伝えられ、それから終わりが来る。」(マタイ 24:14)「ああ、それが成し遂げられるときか。ちょっと待ってくれ、混乱してきた。一体どちらなのか。」
成し遂げられたのに、成し遂げられていないのか。これは、教会を実に多くの点で弱く力のないものにしている、キリスト教の大いなる逆説である。
ある日、わたしは三十五年の経歴を持つある「牧師」の話を聞いていた。彼は熱意と身振りをもって、「すべてはキリストにおいて成し遂げられた」と繰り返し語っていた。わたしはパウロのローマの信徒への手紙10:2にある、心に残る言葉を思い出した。「彼らが力ある方に対して熱心であることは、わたしが証しできる。しかしその熱心は正しい知識に基づいていない。」言い換えれば、「彼らが全能者に深く献身していることは保証できるが、彼らは道を誤っている」ということだ。
わたしが彼に投げかけた問いはこうだった。「もしすべてが成し遂げられたのなら、教えてほしい。なぜ……
・わたしは恐れおののきつつ自分の救いを達成しなければならないのか。(フィリピの信徒への手紙 2:12)
・わたしは自分の前にある競走を走り抜き、決してあきらめてはならないのか。(ヘブライ人への手紙 12:1)
・わたしはメシア・Yahshuaがわたしを捕らえてくださったその目的をつかもうと、前進し続けなければならないのか。(フィリピの信徒への手紙 3:12)
・わたしはただ聞くだけでなく、御言葉を実行する者であるべきなのか。(ヤコブの手紙 1:22)
・わたしは思いの一新によって変えられなければならないのか。(ローマの信徒への手紙 12:2)
・わたしは栄冠を得るために目標を目指して前進し続けるべきなのか。(フィリピの信徒への手紙 3:14)
・わたしは、何一つ欠けることのない完全な者となるために、忍耐にその働きを全うさせなければならないのか。(ヤコブの手紙 1:4)
・律法を聞く者が全能者の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しい者とされるのではないか。(ローマの信徒への手紙 2:13)
・わたしは『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい』と命じられているのではないか。(マタイ 5:48)
・天と地が消え去るまでは、すべてが実現するまで、律法の最も小さな文字、最も小さな一画さえも決して消え去ることはないのではないか。」(マタイ 5:18)
彼の答えはこうだった。「まあ、わたしたちはイエスがなさったことを行うべきなのでしょう?」わたしは答えた。「では、キリストにおいて実際には『成し遂げられて』はいなくて、信じる者もまた『行わ』なければならないのですね。それはむしろ、彼が始められたことをわたしたちが完成させるべきだ、ということではないですか?」彼はしばらく呆然と立ち尽くし、それから唐突に言った。「まあ、すべてはキリストにおいて成し遂げられているのです。」
これはあなたのことだろうか。もしメシアが「わたしの天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言われたなら、彼は冗談を言っておられたのか。彼は「心配ない、わたしがあなたのためにそれを行った。あなたが負うべき杭はない」と言われたのか。それとも彼はむしろこう言われたのか。「もし人がわたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹、そして自分自身の命さえも捨てる覚悟がないなら、その人はわたしの弟子となることはできない。だから、自分の杭を負ってわたしに従わない者は、わたしの弟子となることはできない。同様に、あなたがたのだれも、すべてを捨てなければ、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ 14:26-27、33)
あなたの目を開きなさい(霊的な認識を)。あなたを不自由にし、あなたを力のない奉仕者にしてしまう、あの恐ろしい教えを捨てなさい。わたしたちはあなたに考えてほしい見解がある。「選ばれた人々への救いの賜物という良い知らせは、成し遂げられた。しかし御国の良い知らせは、成し遂げられていない。」それは今なお、全世界に対して(従順な人生によって宣べ伝えられ)生き抜かれる必要があり、それから終わりが来る。それがYahshuaの言われたことだ。
© Suffer Well デボーション・シリーズ