285日目

絶えず成長し、絶えず知る

このメッセージは自動翻訳されたもので、誤りが含まれる場合があります。

わたしは祈る。栄光の父、わたしたちの主人Yahshua・メシアの力ある方が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、彼〔Yahshua〕をより深く知るようにしてくださるように。そうすれば、あなたがたはより深い洞察を持つようになる。あなたがたは、神が与えられる確信と、Yahwehの民が受け継ぐ栄光に満ちた富とを知るようになる。(エフェソの信徒への手紙 1:17-18)

知恵と理解において前進し続けるためには、「自己」あるいは「自我」の力が、常に存在し、常に準備万端で、聖さに対抗し抵抗しようとする力であることを知る必要がある。その聖さこそが、「あなたがたの内におられるメシア、栄光の望み」(コロサイの信徒への手紙 1:27)である。決して「あなたの内なるあなた」がメシアの思いへと高められることはない。

生涯を通じて罪を犯すことがなかったYahshuaでさえ、疑いの一瞬、言い換えれば「自己」の一瞬を経験されたことを認識することが極めて重要だ。「なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ 27:45-46、詩編 22:1による)

正しく理解するために何より重要なのは、その疑いが、彼がその瞬間まで父に求められたすべてのことを行い終えた後に現れたという事実に気づくことだ。彼は杭にかけられ、すでに刺し貫かれ、まさに死に至るまでの従順の間際にあり、命じられた務めは、次のわずかな息の間に「成し遂げられよう」としていた(マタイ 27:50、ヨハネ 19:30)。そしてそこに、たった一つの疑いの思いが浮かんだ。それは罪だったのか。もちろん違う。それは必要だったのか。まさしく必要だった。それは人間の苦闘についてのあらゆる時代への教訓だったのか。まさにそうだ。

デボーション259で詩編22編について語り合ったことを覚えているだろうか。その結論はこうだった。「すべては思い、思考の過程、わたしたちが自分の『自己』についてどう考えるか、そして霊の力によってその思いをどう贖うかにかかっている。愛する者よ、すべては思いの中にある。命は思いの中にあるのだ。」

わたしたちは12節と13節を、ある意味で形而上学的な、いわば超自然的な視点から分析した。「散らばった頑固な思いがますます増え、わたしの思考の過程に侵入してきた。これらは、霊的な思考の自由とは対照的に、贖われていない物質的な意識にわたしを縛りつける思いだ。この肉的な思いは絶えずわたしの思いの中を巡り、わたしを絡めとる。この肉的な思考の過程は、散らばった断片的な考えを生み出し、広めていく。それらはわたしの脳を引っ張り、むしり取る。そしてわたしの内でうめきとうなりを引き起こす。それらはあまりに大きな音を立てるので、わたしはまともに考えることさえできない。」

そして、それこそがダビデが叫んだ後の思いだった。「わたしの力ある方、わたしの力ある方よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか。なぜわたしを救うことから遠く離れ、わたしの苦しみの叫びから遠く離れておられるのですか。」(詩編 22:1)それはまた、Yahshuaの言葉でもあった。

これがわたしたちへの教訓だ、愛する者よ。死に至るまで、それはあなたの最後の息を意味するが、自我は常に潜んでいる。Yahwehの御心に永遠に対立する自己の意志は、あなたの思いが復活するまで根絶されることはない。

この知識をもって、わたしたちはその型を見分けることができる。Yahwehがあなたの力を増し加えられるとき、自我は常にそこにいて、その力を自己栄光化のために使いたいと望むだろう。これを理解するだけでなく、日々それを告白するために、常に油断せず、常に励みなさい。「Yahwehよ、堕落したわたしのあらゆる部分が、あなたの力と恵みを誤用したいと望むことを、わたしは知っています。しかし今日は、わたし自身を捨て、わたしの杭を負うための力と勇気をあなたが与えてくださり、あなたの子がわたしの内で王として治めてくださるよう願います。」

そして、愛する者よ、この真理を知りなさい。いつか、あなたの思いが復活するとき、あなたの自我は二度とあなたの思考の過程に現れることはない。「一度きよめられた礼拝者は、もはや罪の意識を持たなかったはずだからである。」(ヘブライ人への手紙 10:2)その時あなたは、Yahwehの思いを持つことになる。喜ぼう、とわたしたちは言う。このことを思い巡らし、喜びなさい。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の杭を負って、わたしに従いなさい。」(ルカ 9:23)

© Suffer Well デボーション・シリーズ