278日目
恐れるべきか、恐れざるべきか
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このデボーションに入る前に、あなたが常に心に留めておくべき重要な型を思い出そう。わたしたちはそれをデボーション254で詳しく明らかにした。「望みの門は谷(荒野)にある。Yahwehは啓示の場所として荒野をお選びになった。そして荒野が啓示の指定された場所であるがゆえに、その型を否定することは啓示を否定することに等しい。」
愛する者よ、Yahwehがあなたに御言葉を与えられるとき、それは永遠のものだ。明確さは新しい啓示から来る。そして新しい啓示は、あなたの従順を試すために意図された谷の経験から来る。あなたの神、Yahwehがこの四十年間、荒野であなたを導かれたすべての道を思い起こしなさい。それはあなたを苦しめ、あなたを試し、あなたの心のうちにあるもの、すなわちあなたがYahwehの命令を守るかどうかを知るためであった。(申命記 8:2)
人類が下した決断のゆえに、永遠の断罪をもたらした決断のゆえに、不自然な恐れ(人を凍りつかせる恐れと不安)が肉なる人間にとっての選択肢となってしまった。しかし、あなたは全能なる力ある方への健全な畏れと、この不自然で断罪をもたらす恐れとを見分けられないために、Yahwehへの畏れをどれほどしばしば悪いものと誤解しているだろうか。
王の息子、娘としてのあなたの相続財産は、この不自然な恐れに関して「恐れるな」というものだ。あなたはその中を歩むならば賢明である。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す。恐れ〔人を凍りつかせる恐れと不安〕には懲らしめが伴うからである。恐れる者は、愛において全うされていない。(ヨハネの手紙一 4:18)Yahwehはこう宣言された。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。おののくな、わたしはあなたの力ある方である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを支える。」(イザヤ 41:10)
このデボーションの終わりに、あなたは愛において全うされる方法、「恐れない」方法を学ぶことになる。モーセの言葉ほど、不自然で断罪をもたらす恐れと、Yahwehへの健全な畏れとの違いを明確に示すものはない。「恐れることはない。全能者が来られたのは、あなたがたを試すため、そして全能者への畏れをあなたがたの前に置き、あなたがたが罪を犯さないためである。」(出エジプト記 20:20)
モーセが民に命令を伝えるよう指示されたまさにその日に、わたしたちはその微妙な違いを見る。「恐れることはない、大いに恐れなさい。」Yahwehを畏れることは知恵の初めである。(箴言 9:10)Yahwehへの畏敬こそすべての知恵の初めであって、不安や人を凍りつかせる恐れではない。畏敬に満ちた知恵はこう教える。「それに触れてはならない、それはあなたを焼くから。」畏敬とは滅ぼす恐れではなく、守る恐れである。
「恐れることはない。全能者が来られたのは、あなたがたを試すため、そして全能者への畏れをあなたがたの前に置き、あなたがたが罪を犯さないためである。」愛する者よ、その試みは良いものである。それはあなたをYahwehへの畏敬と罪への恐れへと訓練する。それはあなたを成熟させ、完全さを生み出す。わたしの兄弟たちよ、様々な試練に遭うとき、それをこの上ない喜びと思いなさい。あなたがたの信仰が試されることで忍耐が生まれると知っているからである。しかし忍耐にその働きを全うさせなさい。それは、あなたがたが何一つ欠けることのない、成熟した完全な者となるためである。(ヤコブの手紙 1:2-4)
要するに、あらゆる種類の恐れは、あなたの選択次第で良い目的に用いることができる。Yahwehへの恐れは知恵をもたらし、罪への恐れは完全さをもたらす。そして、あなたの谷の経験において、あなたは大いなる試練に直面したときにどのような選択をするかを試されている。もしあなたが罪を犯していないなら、不自然で断罪をもたらす恐れは起こりえず、あなたは愛において全うされているのだ。
結びとして、あなたが考えるべき問いはこうかもしれない。「なぜわたしが罪を犯さないことを学ぶために、これほど多くの試練が必要なのか。」このことのゆえに、あなたがたは大いに喜んでいる。今しばらくの間、必要であるなら様々な試練によって悲しまなければならないとしても、それはあなたがたの信仰の確かさが、朽ちる金よりもはるかに尊く、火によって試されることで、Yahshua・メシアの現れのとき、称賛と栄誉と栄光に至るためである。(ペトロの手紙一 1:6-7)
© Suffer Well デボーション・シリーズ