185日目

悪い教え、悪い思い!

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すべてのことには意味があり、無意味なものは何一つない。あなたが無意味だと思うようなことにさえ、目的がある。それゆえ、すべての事柄の目的は、彼のルーアッハ(霊・息・思い)によって明らかにされなければならない。

このゆえにあなたは命じられている。「自分自身と教えとに気を配り、それを持続しなさい。そうすれば、あなた自身をも、あなたの話を聞く人々をも救うことになる」(テモテへの手紙一 4:16)。

では、あなたの「救われること」についての教えは何か。自分自身と教えについて何を気に留めるべきか。救いとは何か。救いとは、地上という一時的な世界で実現されていく、絶対的な聖さへと救われた思いのことであり、贖い(あなたが何もしなくても与えられる無償の賜物)とはしばしば混同されるが、そうではない。

もしあなたの生き方と教えが純粋であれば、あなたの思いは、救いはまだ達成されていないと告げるだろう。それゆえ、救いは「恐れとおののきをもって実現される〔あらゆる思いにおいて実践される〕」ものでなければならない(フィリピの信徒への手紙 2:12)。悪い教えは、「わたしは何月何日に救われた」といったことをあなたに言わせ、あなたはそれを本当だと自分に信じ込ませるだろう。

救われるとは、Yahwehとその子と霊と一つの思いを達成することを意味する。もしあなたが「救われている」と主張するなら、あなたは全能者の思いをもって歩んでいると主張していることになる。そう、完全な思いは命じられており、それゆえYahwehの息子娘たちに約束され、与えられているのだ。「わたしが完全である〔聖なる思いを持つ〕ように、あなたがたも完全でありなさい」と言われている通りに(マタイによる福音書 5:48)。

これは、もはや罪の意識を持たないことを意味し(ヘブライ人への手紙 9:14)、古い「自己」に意識的に従う能力をもはや持たないことを意味する。それと同時に、かつては古い自己があらゆる思いを支配していたことを十分に認めることでもある。

成熟した者たちは、自分がまだ救われておらず、むしろ救われるために贖われているのだと認めることに何の問題も感じない。そして未熟な者たちは、自分の思いが、ひいては自分の行いが、いまだに肉的なもので満ちているにもかかわらず、「救い」が自分の内で完成していると主張するのである。

愛する者よ、あなたについてそのように言われることのないようにしなさい。すなわち、罪(不完全な思い)にとどまり続けながら、救われていると主張することのないように。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイによる福音書 24:13)。

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